ペンネーム:職員I
6月10日は「時の記念日」です。天智天皇が西暦671年6月10日に水時計を使って初めて時刻を知らせた事を由来としており、時間を大切にしましょうということで1920年に記念日が制定されました。
さて、学校における「時間」はどのようなものだったのでしょうか?江戸時代の寺子屋は、とてもおおらかでのんびりしていました。子供たちはそれぞれが生活にあわせて別々の時間に来て、手習いをしていました。そして、線香が燃えつきる時間を区切りにするなどして、勉強をすすめたといいます。おおよそ40分くらいです。(江戸時代、町中においては日時計が用いられていて、時間は鐘を鳴らして知らせていました。)しかし、明治時代に西洋化がすすめられ、太陽暦が採用されたことで時間の観念は変わりました。教科が定められ、一時間毎にきっちりと教科内容が区切られる、時間割がもうけられたためです。生徒は決まった時間に登校し、授業を受けるようになりました。とはいえ、時計が各学校に普及するまでは、時計が設置されていない学校では時刻がはっきり分からないため、混乱することもありました。
さて、当館(教育資料館)は旧山形師範学校本館の校舎を用いており、山形市の緑町に位置していますが、当地に移転される前は旅籠町(文翔館の辻向かいの辺り)にありました。そして明治11年開校の旅籠町の校舎には時計塔が設けられました。時計塔のある校舎は当時としては大変に珍しいもので、東北では初めてでした。当時は街中で時計が設置してある場所はまだまだ限られていて、ほとんどの人々は時計を見慣れていませんでした。行き交う人々は時計塔を物珍しいものとして眺めたそうです。校舎移転後は、旧校舎の時計は市民の便を図るため、山形県庁舎に移設されました。新しい校舎の塔屋には当初時計は設置されず、かわりに鐘が取り付けられました。また師範学校の寮には軍隊の生活様式が取り入れられ、ラッパが学生に起床、就寝、食事の時間を知らせる手段として用いられていました。地域や学校によりますが、大正時代になると教室に時計が設置されることが増えてきたと言われています。
当館の展示室『昭和初期の教育』には、時間の区切りを知らせするために使われた鐘があります。「振鈴(しんれい)」といって、用務員さん(かつては小使いさんと言われた)が鐘を振って鳴らし、授業が始まる時や終業時等、学校での区切りの時間を知らせに校内をまわることで、今でいうチャイムとしての役割を果たしていました。振鈴を実際に鳴らしてみると、「カ―ン、カーン」ととても良く響き渡りますが、鳴らしながら、校内をまわる時に時間がかかるので、すこし「時差」が生じていたようです。明治のころから使われていた用具ですが、学校により昭和になっても使われていました。当館の80代以上の来館者の中には「懐かしい」とおっしゃる方もいらっしゃいます。実物はずっしりとしていて重いです。
現代はせわしなく、時間に追われていると感じることも多いのですが、普段生活していると、何気なく時間がなんとなく過ぎていくこともありますね。時には立ち止まって、ゆっくりすることも必要ですが、時間を意識して、一日一日を大切に生活することが大事ですね。
改めて、時間について、様々なことを各々が思いを馳せてみてはいかがでしょうか。


