執筆 瀬戸大暉(地学担当学芸員)
今年の4月から体験広場に、須川埋没林の化石木を展示する展示室をオープンしました。化石木は2本展示してあります。ここでは発見から展示までをご紹介します。

【須川埋没林の化石木発見まで】
須川埋没林の発見は27年前の1998年まで遡ります。この頃に地元の方が上山市宮脇地区を流れる須川の河床に半ば化石化した「立ち木の樹木」が露出していることを発見しました(長澤・阿部,2001;本田ほか,2003)。山形市谷柏地区でも、山形大学の櫻井教授(当時)によって、2003年に「立ち木の樹木」が発見されました(山野井ほか,2013)。
それまでにも、谷柏地区の須川河床に樹木があることは地元で知られていました。しかし、それが2万7千年前の樹木であるとは考えられておらず、橋脚の残骸説、船の係船柱(ボラード)説、洪水から堤防を守るために昔の木製電信柱を埋めた説などの「人工物」であると思われていました。過去には川遊びで化石木の上から飛び込みしていたこともあったとか。
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出典:国土地理院撮影の空中写真(1975年撮影)
【化石木が博物館に来るまでの道のり】
埋没林が須川河床にあることは研究によって明らかになってきましたが、「河床」にあることと「立ち木」であることがネックとなって、発見以後は現地で保存活用がされてきました。谷柏地区の須川埋没林は、「氷河期の須川埋没林」として、地元のコミュニティーセンターや大学の協力もあり、長年に渡り地域の宝として見守られて来ました。
そもそも、なぜ「須川埋没林の化石木」が「埋没林」と「化石木」に名称が分かれているのでしょうか。答えとしては、「埋没林」は「林」と名前が付くように、森林が何らかの原因で現地に埋まって保存された場所を指す名称とされ、「化石木」は「埋没林」から発掘・採集された「樹木の化石」の名称であるとされます。そのため、上山市から山形市を流れる「須川」から発見された「埋没林」から採集された「樹木の化石」と言う意味で「須川埋没林の化石木」と命名されました。
話が逸れてしまいましたが、化石木が博物館に来るまでの経緯は、時を2020年まで遡ることになります。2020年7月27日~29日にかけて、山形県と秋田県で記録的な大雨が記録され、須川も大きなダメージを受けました。その後、須川埋没林のある谷柏地区では河川改修工事が実施されることとなりました。豪雨災害の翌年の2021年に須川では護岸工事が行われることとなり、須川の河道を一部変更する工事が行われました。その際に、須川埋没林の一部が完全に陸上に露出する機会ができました。
この時にも地元の方からの埋没林が露出しているという情報が博物館に入り、急遽、学芸員が現地を確認することとなりました。2021年5月に学芸員が現地に赴き、3本の化石木SK1~SK3を確認しました。現地での確認と関係各所への調整の結果、7月に1本(SK1小さいほうの化石木)、9月に1本(SK2大きいほう)を掘り出すこととなりました。

2021年7月にSK1の掘り起こしが始まりました。重機を使用し、化石木の周り現世の河床の礫を取り除き、根っこが見えるようにしました。
博物館・県・大学・地元の方々の総勢50~60名が見守る中で、SK1は無事に掘り起こされ、博物館へと輸送されました




2021年9月にSK2の掘り起こしが始まりました。SK2はSK1と違って、根っこが大きく張り出していたことから、少々掘り起こしが難航しましたが、無事に掘り起こされ博物館に輸送されました。





さて、無事に須川埋没林から掘り起こされた化石木2本ですが、このままでは展示ができない状態でした。まず、川から引き揚げたため、化石と言っても非常に膨大な水分が残されています。そのため、まずは乾燥させる必要があるのですが、何せ大きい上に重いため、野外での自然乾燥しか方法がありませんでした。なお、掘り起こした直後のSK2はクレーンで釣り上げた際に約1トンの重さを記録しています。そのため、止む無く博物館の裏手や正面入口などで乾燥させていました。
【化石木の展示までの軌跡】
時は2023年となり化石木の展示計画がいよいよ始動しました。まず初めに決めることが、この大きな化石木をどこに展示するのかでした。色々と知恵を絞って考えた結果、1階の体験広場の一角を展示スペースとすることが決定しました。展示スペースが決まったので、次はどのように化石木を展示するかを決めなければなりませんでした。博物館内に展示する必要があるため、まずは乾燥によって生じた割れ目等の補修、自然環境下にあったための防虫・防カビ等の資料保護を行いました。大きさの観点と資料の保全状態からSK1から処理を始めることとなりました。SK1の処理と平行して、大きな化石木であるSK2をどうやって館内に運び入れるかが課題となりました。寸法上は、博物館の入口ギリギリの大きさとなり、しかも人力で動かせるのかも課題となりました。
課題は残りつつも2024年8月に遂に化石木SK2を館内に運び入れることとなりました。まずは化石木を浮かせて、台車に乗せることから始まります。果たして、化石木が釣り上げた際に自重を支え切れるのかと不安もありましたが、幸いにも無事に台車に乗せることができました。第一関門突破です。


台車に乗ったので、最大の関門である館内への運び込みが始まりました。幸いにも乾燥が進み、重量は軽くなったので、大人が数人掛かりで押せば化石木は動いてくれました。非常口からの搬入を試み、台車を近づけていきます。寸法上、通らない可能性がありましたが、無事に最大の関門を突破に成功しました。
〇当時の会話(再現)
「慎重に、ゆっくり近づけて、もうちょい、もうちょい」
「あれ?これこのまま通るじゃないか?」
「じゃ、このまま行きます。」
「お?おぉ?おおお!(歓声)」
「通った!通った!」
「おおお!(再度歓声)」


幸いにも化石木SK2は、切ることもなく館内に入れることができましたので、そこから各所に補修・保護処理が行われました。その後、展示スペースの工事や化石木を展示用に垂直に立ち上げたりと徐々に展示に向けて具体的な動きが始まりました。
2025年3月にいよいよ化石木SK2を展示場所に移動することが始まりました。展示用の姿勢になっているため、ほとんど柱だけで支えており、バランスを崩すと一巻の終わりと言う中で、移動が始まりました。もしバランスが崩れたらとの考えも杞憂に終わり、無事に化石木SK2は現在の展示場所へと移動が完了しました。




その後に照明のセッティング、展示スペースの壁面にある背景パネルの準備、解説パネルの作成を経て、ようやく展示スペースが完成となりました。さらに、AR(拡張現実)によるSK2の復元イメージ、QRコードでの多言語解説を設置し、遂に新たな展示室がオープンとなりました。




【最後に】
須川から埋没林が発見されてから22年後の2025年(令和7年)4月1日に「須川埋没林の化石木―最終氷期最寒冷期の針葉樹」が常設展示となりました。
この展示ができるまでの間に多くの関係者の方々から多大なるご支援とご指導を賜りました。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。須川の埋没林の発見に大いに尽力された阿部龍市氏は、2022年(令和4年)12月にご逝去されました。ここに謹んで哀悼の意を表します。阿部龍市氏の業績は、長澤ほか(2024)に詳細が記載してあります。


引用文献
本田康夫・井上量庸・山野井 徹・沼澤菊男(2004)上山市宮脇地内の「化石の森」について.山形応用地質,24,1-7.
長澤一雄・阿部龍市(2001)山形県上山市須川河床で発見された上部更新統の針葉樹埋没林.山形応用地質,21,95-99.
長澤一雄(2022)山形市須川河床に現れた後期更新世の埋没林の発掘.山形県立博物館研究報告,40,6-14.
長澤一雄・大場 總・阿部弘也(2024)〈追悼〉阿部龍市氏を偲ぶ ~山形の大地と化石を愛す~.山形応用地質,44,107-109.
山野井 徹・都築勝宏・本田康夫・井上量庸・津智志(2013)山形市南部須川河床の化石樹木.山形応用地質,33,10-17.